地区の歴史・文化

地区のボタンをクリックすると地区別テーマまでリンクが飛びます。

すもと歴史かるた 地区別テーマ一覧

市街地 内町・外町

城下町洲本(じょうかまちすもと)

洲本の市街地はかつてお城の城下町として栄えた城下町です。
江戸時代前期に整備された碁盤目の町割が今もなおみてとれます。通りごとに名前がつけられており直線的に通る路地は当時の趣を味わうことができます。

しばえもん狸(しばえもんたぬき)

芝衛門狸はむかし三熊山に住んでいた大だぬき、人間をばかすイタズラもしたけれど、山道に迷った人間に親切な行いもし憎まれずにいた。浪速(現在の大阪市)の芝居小屋、なか座に通う芝居好きで木の葉のお金が怪しまれ犬に追われて命をおとしてしまった。しばえもんが通うと客あしが増えると「繁盛の神」「人気の神」として今も洲本城の片隅には、しばえもん狸をまつる祠があり、中には狸像がまつられている。
※しばえもんのお話しは各地で少しずつ異っており多くの方に親しまれてきた物語です。どのお話しからテーマを設定していただいても構いません。

その他:三熊山の柴右衛門・すもと八狸

〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷1272

洲本城跡

洲本城跡は、東西約800m、下の城まで入れると南北約600mと西日本最大級の規模を誇ります。秀吉の大坂城を守るために改修された総石垣の縄張群は圧巻で、特に山裾の下の城と山上の上の城とを結ぶ二条の登り石垣が城をより強固にしており、洲本城最大の特徴となっています。

 平成11年に国の史跡に指定され、平成29年には続日本100名城に認定されました。

〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷1272

三熊山・三熊山公園

瀬戸内海国立公園に属し、紀淡海峡を一望できる展望台は洲本八景の1つであり風光明媚な眺めを誇る。めずらしい植物が多く自生し、シロミノヤブムラサキなどの希少価値の高い植物も見られる。

〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷

金天閣 旧洲本城移築迎賓館
県指定 重要有形文化財

寛永18年(1641年)に徳島藩主蜂須賀忠英(ただてる)が、三熊山山麓の洲本城内に建てた洲本御殿の一部です。洲本御殿の大部分は明治維新後に取り壊されましたが、この玄関と書院だけが移築され残りました。洲本城下の城の迎賓館として当時建てられた貴重な建造物で、内部は美しく豪奢な装飾が施されています。

現在は、金天閣として洲本八幡神社の境内にあります。
洲本市WEBサイトより

〒656-0024 兵庫県洲本市山手2丁目1−43

大浜海岸
環境省認定:日本の快水浴場百選

白砂青松の風光明媚な海水浴場で遠浅で水が美しく関西では人気のスポットです。ビーチは南北に750mあり、ゆったりと歩くことができます。砂浜には、かつて「洲本大浜千本黒松」と呼ばれた松原が続き、白砂青松海岸を楽しめます。

〒656-0022 兵庫県洲本市海岸通1丁目2

大浜壁画(おおはまへきが)
大浜公園内のウォールアート

七色にペイントされた大浜壁画

〒656-0022 兵庫県海岸通1丁目2−871

庚午事変(こうごじへん)(稲田騒動 いなだそうどう)

1870年5月

明治維新に伴なう禄制改革(ろくせいかいかく)で稲田氏の家臣を士族とするのか、卒族とするかという、武士の身分問題と経済問題を起因としておこった。
徳島藩側の主謀者には政府から重い処分がくだり、日本法制史上、明治以降において行われた切腹刑の事例であり、明治の忠臣蔵ともいわれている。

永田青嵐(ながたせいらん)

明治から昭和に活躍。官僚、政治家、俳人、随筆家。

旧制洲本中学校第3代校長、第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。
釣り好きとして知られ、また日本サッカー協会(当時は大日本蹴球協会)創立時の賛助者として名をつらねている。

旧益習館庭園(きゅうえきしゅうかんていえん)

国名勝 

 寛永8年(1631)から行われた城下町建設時の石切場を徳島藩の筆頭家老稲田氏の別荘(西荘)庭として作庭しました。嘉永7年(1854)、稲田氏の私塾学問所を西荘に移し、それ以後は益習館(えきしゅうかん)と呼ばれるようになりました。
明治3年(1870)の庚午事変により、建物は焼けてしまいましたが、庭だけが当時の面影を残しています。曲田山山麓に作庭された庭園は、東西に長い池泉を穿ち、山側護岸に和泉砂岩の巨石を用いた池泉回遊式庭園です。高さ4mを超える山側護岸の巨石は、庭園石材としては日本最大級の大きさをほこります。

〒656-0024 兵庫県洲本市山手3丁目3−17

寺町 (てらまち)(寺町八ヶ寺)

国名勝 

白壁が続く寺町は江戸時代の風情を色こおく味わえます。
江戸時代に淡路を治めていた蜂須賀氏により、寛永八年(1631)から数年、由良城から交通の便がよい平地の洲本に本拠地を移す「由良引け」が行われました。
三熊山の麓に城を築き、洲本川の沖積地に城下町を建設し、政庁や武家屋敷、寺院、町屋などを移転させた。この時、城の防衛のために、千草川沿いに寺院を集めたのが寺町である。

北から順に
・浄泉寺 : 真宗大谷派/阿弥陀如来
・江国寺 : 臨済宗/釈迦如来
・本妙寺 : 法華宗/十界勧請曼荼羅
・千福寺 : 高野山真言宗/愛染明王・薬師如来 
・遍照院 : 高野山真言宗/弘法大師
・専称寺 : 浄土宗/阿弥陀如来
・浄光寺 : 浄土真宗本願寺派/阿弥陀如来
・称名寺 : 西山浄土宗/阿弥陀如来

 〒656-0025 兵庫県洲本市本町8丁目7−31
南北中心にある、専称寺の所在地

岩田ロード 岩田康郎 (いわたやすろう)

洲本の近代化、発展の基礎を築いた

現在、洲本市の中心を流れている洲本川は、かつては南に蛇行し、氾濫すると市街地に大きな被害をもたらしていました。この洲本川の氾濫防止と新たなまちの区画整理等を目的として、旧五色町鮎原の出身で当時の洲本町長であった岩田康郎氏が、明治 37 年(1904)に洲本川の付け替え工事を実行しました。付け替えによって埋め立てられた土地には、カネボウの工場を誘致し、社宅も含め企業城下町が形成され、後のまちの発展に大きく寄与しました。
洲本バスセンターの交差点に建てられた“洲本近代化の父”岩田氏の銅像は、今日も洲本のまちを見守っています。
出典:淡路百景より

 〒656-0025 兵庫県洲本市本町8丁目7−31
南北中心にある、専称寺の所在地

淡路鉄道 洲本〜福良

淡路鉄道(あわじてつどう)は、かつて兵庫県淡路島において鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。

会社は1914年(大正3年)に設立され、1922年(大正11年)に鉄道路線の一部区間営業を開始し、1943年(昭和18年)に戦時中の交通統制で全淡自動車と統合されて淡路交通となった。そのため、淡路交通となってからは、淡路交通鉄道線という路線名であった。通称は淡鉄(だんてつ)。運営していた鉄道路線は、1966年(昭和41年)に廃止された。wikiより

現在の洲本バスセンターは、当時の洲本駅であった。

〒656-0027 兵庫県洲本市港2

オリオン会館

淡路島

大正時代より芝居小屋として存在し、現在は淡路島唯一の映画館。3世代にわたり映画文化を守り続けて、まちのみんなに愛されるレトロこみちの中心的場所。

〒656-0025 兵庫県洲本市本町5-4-8
TEL:0799-22-0265

物部

曲田山古墳(まがたやまこふん)

横穴式石室

淡路島第三位の大きさの石室古墳です。

 〒656-0052 兵庫県洲本市津田

明兆(みんちょう)

水墨画先駆者

室町時代前期の画僧で、国宝重文の作品を数多く残したとされています。
雪舟に大きな影響を与えたといわれ、この時代の代表的な画僧侶とされています。
淡路島洲本で生まれ、淡路島の三偉人と呼ばれています。

真珠核

近代産業

淡路島は、真珠核の製造シェア9割を誇る産業である

春陽荘(しゅんようそう)

国登録有形文化財

昭和16(1941)年に、造船業で富を得た岩木家の社長宅兼事務所として建てられました。設計は家相方位学の権威である山本豊圓氏で、風水の思想にもとづいて設計され、地元の大工棟梁の斉藤三吉氏らが腕をふるい7年の歳月をかけて完成させました。
427坪の広い敷地には、貴賓館、蔵、客殿、寝殿、常住殿など8棟の建物があり、平成16年に国の有形文化財に登録されています。貴賓館など一部に近代的な要素も取り入れた優雅な和風建築群は、建築家出江寛氏により設計された塀や門扉とともに、調和のとれた趣あるたたずまいを創りだしています。平成16年に有形文化財として登録、平成29年3月に兵庫県景観形成重要建造物として指定されています。

〒656-0012 兵庫県洲本市宇山2丁目5−4

鐘紡工場跡(かねぼうこうじょうあと)

経済産業省「近代化産業遺産」認定

洲本の近代化に大きく貢献した、明治時代の建造物。鐘紡の紡績工場跡です。
工場の操業が明治33年(1900)、明治42年(1909)には第二工場の操業が始まり、その後も第三工場、第四工場、第五工場、共同宿舎、女学校などがつくられ、大きくなっていきました。その後はオイルショックの影響から規模が縮小していき、昭和61年(1986)には紡績工場としての役割を終えました。
現在は市の公共施設や飲食施設、図書館として再利用されています。

〒656-0021 兵庫県洲本市塩屋1

ドラクエ記念碑

洲本市市民ひろばに設置されているドラクエ記念碑、2017年にドラゴンクエスト30周年記念として建立されました。ドラクエファンの聖地巡礼スポットとして絶えず人が訪れます。「スライムに幸福、盾に厄よけ、剣に悪縁を切る願い」が込められているパワースポットです。また、兵庫県洲本市出身のゲームデザイナー堀井雄二さんは「ドラゴンクエストシリーズ」の生みの親であり、現在は洲本市名誉市民として活躍されています。

〒656-0021 兵庫県洲本市塩屋1

炬口城跡(たけのぐちじょう)

県指定 記念物

淡路島の中央東岸、大坂湾に面した炬口漁港西にある標高約96mの万歳山の頂上に位置しています。
 炬口城は、戦国時代に淡路水軍を率いた安宅氏が16世紀前半に築城したと伝わります。城の構造は、本丸・二の丸・出丸からなり、本丸は南北約80m、東西約50mで、四方は最大3mを越える土塁で囲われています。
 戦国時代、淡路島を席巻した安宅八家衆の城の一つに数えられ、淡路島に残る城跡の中でも遺構の残りが極めて良好な城で、淡路島を代表する城跡の一つです。

所在地:洲本市炬口97-1外

炬口台場跡(たけのぐちだいばあと)

経済産業省「近代化産業遺産」認定

徳島藩主の命によって、江戸時代に洲本城城の藩主である稲田氏が築城した台場である。

『淡路洲本城』城郭談話会刊参照

〒656-0011 兵庫県洲本市炬口1丁目1−24

名号石(みょうごいし)

経済産業省「近代化産業遺産」認定

ご本尊である名号石には「阿無阿弥陀仏」と刻まれています。これは弘法大師が刻んだものと伝えられています。陀仏川(だぶつがわ)の源流に位置しており、大木モミジは紅葉の時期の名所となっています。

〒656-0011 兵庫県洲本市宇山

洲本港

かつては洲本川の河口と直結しており、大雨時に市街地が洪水になることや、砂の堆積によって大型船が停泊できなくなる問題などから明治時代に洲本川が改修され、港の近代化が図られた。これにより淡路紡績(のちの鐘紡)を誘致した。

以後、神戸港・大阪港からの玄関口として機能した。
現在、定期運航している旅客航路はない。
wikiより

兵庫県洲本市海岸通 一丁目11-1

千草

シロミノヤブムラサキ(白実の薮紫)

市指定 記念物

シソ科(旧分類クマツヅラ科)ヤブムラサキの一種で、実は一般的に紫ですが、白い実と白い花冠がなることからこの名が付きました。これまで、世界中でこの株以外に白実は報告されていませんでしたが、大阪府豊能町でも発見されています。
 6月上旬に白い花を咲かせ、11月上旬には実も白くなります。
洲本市WEBサイトより

〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷1272

猪鼻城跡(いのはなじょう) 千草城

経済産業省「近代化産業遺産」認定

山城

〒656-0031 兵庫県洲本市千草丙

加茂

千山千光寺(せんざんせんこうじ)

国生み神話ゆかりの地

イザナギ、イザナミの2神が最初に作ったので「先山」と名付けられた山頂に位置しています。すぐ下方には天照大神を祀る岩戸神社があります。国生み神話ゆかりの地です。大猪(おおいのしし)に化けた観音さまに導かれた狩人の忠太という青年が、改心し千光寺を開基したという伝承があります。境内にはこまいぬではなく、駒猪がいることもこれに由来しています。

その他千光寺関連:大猪と狩人忠太、駒いのしし寂忍上人、先山千光寺の梵鐘ありの千光寺参り

千光寺には団子転がしの風習があります。死者の五七日忌にだんごまたはおにぎり山上から谷に向かって放り投げる供養行事です。

山頂からの眺めは洲本八景の1つです。西に沈む夕日の美しさ、紅葉スポットとして訪れる方が多いです。

 〒656-0017 兵庫県洲本市上内膳2132

三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう
県指定 重要有形文化財

コヤダニ古墳から出土した三角縁神獣鏡、淡路文化史料館で現物をみることができます。鏡をぐるりと囲む、外縁の断面が三角形をしています。神様と獣(けもの)のもようが描かれています。古墳時代の鏡は姿をうつすものでなく、権威の象徴とされていたことから、コヤダニ古墳には有力者が埋葬されていた?といわれています。

その他:コヤダニ古墳(兵庫県洲本市下加茂岡)

 〒656-0024 兵庫県洲本市山手1丁目1−27

奥畑のメグロチク (芽黒竹)

県指定天然記念物

節と節の間の芽溝部に、黒い筋が交互に出ているのが特徴です。孟宗竹のように太くなく、筍は食用になります。付近一帯がメグロチクの竹林ですが、その内の200平方メートルが指定になっています。
洲本市WEBサイトより

 洲本市奥畑144-2

石田三成供養塔

節と節の間の芽溝部に、黒い筋が交互に出ているのが特徴です。孟宗竹のように太くなく、筍は食用になります。付近一帯がメグロチクの竹林ですが、その内の200平方メートルが指定になっています。
洲本市WEBサイトより

 洲本市奥畑144-2

蓮光寺太子堂

市指定 有形文化財

元は龍宝院にあった塔で、蓮光寺の記録によると明和8(1771)年に建立されたとされます。『堅磐草』には、「近世の諸職人力を戮せ一洲の工匠寝食を忘れて妙工を争い禽獣花木の彫刻の善美を尽くせり」と記されています。龍宝院は、明治の神仏分離令により廃寺となり、この太子堂も破却される運命にありましたが、明治5年(1872)、蓮光寺の住職の願いで解体移築されました。
 解体移築されていますが、建立後245年を超える、淡路島内でも数少ない塔婆建物です。当時の職人が一堂に会し、寝食を忘れて彫られた彫刻は特に素晴らしく、また職人の遊び心も垣間見える傑作です。洲本市WEBサイトより

兵庫県洲本市上内膳1207

大野

土生寺陶瓦窯跡(どうじょうじとうがよう)

説明

兵庫県洲本市大野土生寺 

山口恒雄像

畑地の長年にわたる水不足問題を、長期による交渉をへて大城池を築造することで解決した功労者。
山口恒雄氏は、工事の完成を見ることなく大正11(1924)年に亡くなりました。事業は嗣子である聞一氏が父の意思を継承し、完成しました。溜池は「壮大で城郭の如く、また堅固、緻密で大丈夫」であるとの意から「大城池」と名付けられました。

その他:大城池

菜の花迷路

菜の花迷路を駆け回る子供たちはさながら妖精のよう!元気な歓声が響きわたる地域よ永遠にの願いを込めて

その他:大城池

 〒656-0055 兵庫県洲本市大野

上灘

平家落人伝説(へいけおちうどでんせつ)

全国に残る平家落人伝説、淡路島にも源平合戦から敗走してきた落人(おちうど:落武者おちむしゃ)が住み着いたという話があります。落人たちは京都をなつかしみ京都八坂神社にならいまつったとされる八坂神社があります。このほかにも当時の都をしのんで名付けられた地名があるそうです。

立川水仙郷(たちかわすいせんきょう)

日本三大水仙群生地の1つ

紀淡海峡を望む絶好のロケーションで、栽培面積約6haの敷地内には約400万本もの水仙が咲き誇ります。
水仙は洲本市の花でもあります。

兵庫県洲本市由良町由良2877-22

集落の石垣

石垣の風景

モンキーセンターの猿文字(さるもじ)

野生のニホンザルを餌付けし、現在350頭ほど見ることができる。年末にはサルでえがかれた「サル文字」が風物詩として親しまれる。

 〒656-2533 兵庫県洲本市畑田組289

中川原

二ツ石

千光寺悲話。忠太の妻と子が播州から後をおって淡路島にきましたが、すでに寂人として仏につかえる身となっていた忠太は子供や妻に会おうとせず子供が岩にのぼり悲しみのあまり父の名前をよびながら足ずりすると、岩が真っ二つに割れてしまったといわれています。

〒656-0006 兵庫県洲本市中川原町36

恐ろしや地獄原(じごくがはら)の鬼薊(おにあざみ)、罪業人(ざいごうにん)の通る道かな(ことわざ)

正徳二年(1712)刑罪場であったと「中川原村史」に記されている。太平山から風が吹き下ろし、殺伐たる地獄原がうかんでくる。

才蔵地蔵

供養地蔵

才蔵を供養するためにたてられたお地蔵さま。
「天明の縄騒動」を参照

安乎

蓮花寺の五百羅漢

淡路四国八十八ヶ所霊場 第七十四番

実如和尚が十六羅漢を安置した後、66年かけて五百羅漢が安置されたそうです。五百体ある木像の羅漢像は表情やしぐさが個々としてことなり、自分の親の姿に似た木像の顔をながめては自分の親に会ったようになぐさめられる、励まされることができるからだそうです。
通称「なでぼとけ」と呼ばれる賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)もまつられており、病気の人がその患部をなでると、その病を治してくれるという言い伝えがあります。

〒656-2126 兵庫県洲本市安乎町宮野原460

菅平右衛門

菅 達長(かん みちなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。通称は平右衛門。淡路十人衆の1人。淡路島の東の海の水軍を率いた。
達長が創始した水軍の術「菅流」は、権之佐によって代々伝えられ、『菅流水軍要略』などの書物が残っている。 Wiki

安乎城(あいがじょう)

洲本市安乎町にある安乎城は、別名直田城とも呼ばれ、安宅氏が築いたと伝わる。
『味地草』等の「淡路四草」には、炬口城主安宅秀興が隠居し安乎城に移り住んだと記されている。
場所は、岩戸川の下流域にあり、北側には菅平右衛門の居城であった菅館がある。遺構はほとんど確認できず、「城の腰」等の関連地名がわずかに残っているのみである。

〒656-2121 兵庫県洲本市安乎町

由良

由良引け

元和元年(1615)、大坂の陣の功により蜂須賀氏に淡路一国が与えられます。
当時淡路の中心は、池田氏が居を構えた由良でした。しかし、交通の便が悪く、広い淡路島を治めるには適さないため、寛永7年(1630)に幕府の許可を得て、洲本に城と町を引っ越す「由良引け」が翌8年(1631)以降より行われました。

切らずのバベ

バベの木

成ケ島の成山に、成山城跡ちかくにある大きなバベの木。由良要塞の工事のため切り倒す命令がくだったもののバベから血がふきだし工事は中止に。それ以降は御神木として祀られました。

生石公園砲台跡・要塞遺構 ・由良要塞関連施設

瀬戸内海国立公園

明治時代には国防の重要拠点とされ由良要塞が作られました。

生石公園ガイドマップ

〒656-2543 兵庫県洲本市由良町2869

出石の刀子(天日槍伝説の地)

日本書紀に記載

出石の刀子という神宝がみずから淡路島に来られ、島民がまつったという言い伝えがあるそうです。出石神社

参照:洲本史ズームアップP20,(淡路島日本遺産の歩き方P99)

〒656-2543 兵庫県洲本市由良町2869

国立公園 成ケ島

成ヶ島は、兵庫県洲本市由良町由良の東側の紀淡海峡に、南北約2.5kmにわたって砂州が伸びる細長い島。瀬戸内海国立公園の一部。淡路橋立とも呼ばれる。

〒656-2543 兵庫県洲本市由良町由良

由良古城跡

現在は成山神社となっています。

洲本市由良町由良古城山

高崎台場跡

陸軍由良要塞 砲台跡

江戸時代に防衛の要所として台場が築かれていた高崎、明治時代にも高崎砲台として紀淡海峡の防衛の役割をになっていました。現在は高崎灯台となっています。

その他
成山砲台跡
伊張山堡塁跡
赤松山堡塁跡
由良要塞司令部跡

ハマボウ

兵庫県 絶滅危惧種指定 レッドデータ

ハマボウはアオイ科の落葉低木、関東以西に分布する。内湾や河口の塩性湿地に生育し、枝はよく分かれてうっそうと茂る。
 県版レッドデータブックでは絶滅の危機にひんしているAランク。成ケ島は県内最大の群生地で、家島諸島でも見られる。花は淡い黄色。
出典:兵庫お出かけPLUS

夏にはハマボウの開花に合わせた「ハマボウ祭り」が開催される。

羽風山城跡(はかぜやまじょうあと)

戦国時代の山城

現在は雑木林となっています。

鮎屋

鮎屋の滝

景勝地

鮎屋ダム下流約600mにある、落差14.5mの滝。園路で近くまで行くことができ、間近で流れ落ちる滝の様子を見ることができます。周囲は激しい水音に包まれ、ひんやりと涼しく神聖な気配を漂わせています。夏になるとホタルが飛び交い、秋には紅葉が滝に映えるなど四季折々の美しい自然を思う存分感じることができます。
洲本市WEBサイトより

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

五の瀬の祠

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

鮎屋の滝温泉

硫黄泉

淡路島では珍しい硫黄成分を含んだ療養泉。
昭和44年の鮎屋ダム築造に伴い源泉がダム湖底に埋没するも、鮎屋ダムが40年ぶりに排水したことを機に、地元住民がかつての利用源泉位置を調査し、当時利用していた源泉設備を探し当てるに至りました。そして、その温泉を誰もが利用できるよう整備しました。鮎屋の滝NPOWEBサイトより

鮎屋の滝NPO

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

カンザブロウノキ

県レッドAランク植物

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

都志

高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)

江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。
wikiより

菜の花、北前船、都志八幡神社随身門、だんじり歌

高田屋顕彰館・歴史文化資料館 菜の花ホール
高田屋嘉兵衛の歴史をたっぷり味わえる施設

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

都志城・三人の和子(つしじょう さんにんのわこ)

戦国の世の数奇な運命を経た3兄弟が数十年の時を経て再会をはたし、幸せをつかみ助けあって暮らしとという民話。

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

菊水の井戸

淡路島におちのびた菅原道真がたこ壺で水を飲み、浄土寺の境内の隅に置くと清らかな美しい湧水が野菊の咲いているそばからわき、それを見て人々は「菊水の井戸」となづけました。
出典:ごしきの民話

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

石櫃

市指定 有形文化財

寝棺 古墳家形石棺
凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式で全長177cm、幅約78cm、高さは土に埋まっており確認できません。淡路島で唯一の古墳時代後期の家型石棺です。後世に破壊を受け石組もほとんど残っていませんが、残存する周囲の石組から、片袖式の横穴式石室を持つ古墳であったと考えられています。洲本市WEBより

〒656-0111 兵庫県洲本市鮎屋

長林寺のつかいだんじり

市指定 民俗文化財

長林寺の本尊十一面観世音菩薩の縁日である7月17日に行われる行事です。かつぎ手が威勢のよいかけ声でだんじりを回転、横転させ、柱に縛られた2人は横になろうと、逆さになろうとリズムを崩さず打ち続けます。東北出身の本高上人が故郷の奇祭を取り入れて、文明年間(1469-1486年)にはじまったとされています。

その他:長林寺の甚左衛門狸、万歳のつかいだんじり

 洲本市五色町都志万歳975

浄土寺の石造宝きょう印塔

県指定 重要有形文化財

花崗岩製で基礎高66.7cm、塔身高43.7cm、笠高62.5cm、相輪高119cmで完存しています。基礎部が二段式の別石造りで淡路島では3例を数えるのみである。また基礎部側面の西面に延文5年(1360年)の銘があることから、南北朝時代のものです。
基礎から宝珠にいたるまで完存しているうえに形態もよく整っており、年代も明らかで大変貴重なものです。洲本市WEBより

洲本市五色町都志468

高田屋嘉兵衛公園  ウェルネスパーク五色

ウェルネスパーク五色は、五色町が生んだ偉大な先駆者高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)を顕彰して、永く後世の人々に語り継ぐために造られた公園です。
高田屋嘉兵衛の功績を紹介する資料館のほか、ログハウスやキャンプ場、公共の宿等の宿泊施設、また温泉や、スポーツ施設等、様々な施設を併設した複合施設です。

〒656-1301  兵庫県洲本市五色町都志1087

ラッパイチョウ

ラッパイチョウは全国で30本程度のめずらしい木である。高田屋嘉兵衛邸跡に3本あり、楽器のラッパ状にくるりと巻いた葉が特徴。見つけると幸せが訪れるといわれている。

 〒656-1301 兵庫県洲本市五色町都志
五色BC(バス

鮎原

白巣城(しらすじょう)愛称:しらっさん

県指定 重要有形文化財

安宅八家衆の城

その他:黒米、竹の皮合戦

 〒656-1324 兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑

青岐(せいぎ)

俳人(1756〜1804)

津名郡小山田村うまれ。早くから俳諧を生涯の業とさだめ活動していた。洲本府中に住まい淡路俳壇を指導した。寛政六年(1794)玉屑にしたがって「奥の細道」行脚の旅に出る。

出典:兵庫ゆかりの俳人より

竜宝寺のお不動様

慶運上人がふしぎな天童のおつげにより、阿万の吹上という浜の海底からお不動さまを引き上げ、まつりました。毎年除夜の丑三つ時に吹上の浜から山上の松に1すじの光がとどき元旦まで照らしお不動さまがお守りしていたそうで、この松を「竜燈の松」とよび竜宝寺となづけました。

〒656-1311 兵庫県洲本市五色町鮎原葛尾555

小林六太夫座

人形浄瑠璃の一座、六太夫がお殿様の行列がきていることを知らずに太鼓を打ち鳴らし、お殿様である紀伊中納言に呼び出されます。切腹覚悟で城へでむくと浄瑠璃の芝居を見せてほしいと言われ、大喜びでお芝居を演じ感動した殿様はたくさんのご馳走で六太夫一座をもてなしました。

出典:ごしき民話

白芝山の絵馬

鮎原天神の絵馬に、白芝山(はくしざん)という絵師が白い馬を描いたが夜になると馬の絵が姿を消すと人の口から口へと伝わり白芝山にも噂が届きました。絵馬の中に、青草とつなぎとめておくための綱も描くことで夜な夜な絵をぬけだすことがなくなったそうです。

その他:鮎原天神

〒656-1325 兵庫県洲本市五色町鮎原南谷562
鮎原天神遺跡

河上神社

イブキは本州、四国、九州に分布しています。指定のイブキは高さ16.5m、胸高周3.34m、根廻り3.35mの巨木で、樹齢約500年と推定されています。
 河上神社には、菅原道真公の伝説が残っており、道真公が植樹した、あるいは道真公が置き忘れた杖が芽をふき成長したなどの伝説が残っています。江戸時代中期の享保2年(1717年)に河上神社拝殿改修の際、ご神木のイブキが拝殿に倒れ掛かり「明日切り除かん」と翌朝見に行くと、1mほど立ち直っていたという伝説が残っており、それを物語るように拝殿の方向に傾いています。
洲本市WEBサイトより

河上神社の御神木イブキ 県指定天然記念物

洲本市五色町鮎原南谷562-1

延長寺の石造宝きょう印塔(えんちょうじのせきぞうほうきょういんとう)

市指定文化財

花崗岩製で塔身と相輪が欠けており、基礎と笠のみが残っています。基礎の高さ42.8cm、幅52.8cm、笠の高さ35.8cm、隅飾の高さ17cm。
 もとは河上神社にあったものを明治時代のはじめに現在の地に移されました。基礎には南北朝時代の康永4年(1345年)とあり、南北朝期の貴重な在銘遺品です。
洲本市WEBサイトより

〒656-1325 兵庫県洲本市五色町鮎原南谷565

菅公の腰掛け石

菅相寺は、菅原道真の伝説が残っています。道真が太宰府に行く途中、この地に立ち寄り、腰掛けて休憩したといわれる「菅公の腰掛け石」が今も大切に祀られています。

〒656-1325 兵庫県洲本市五色町鮎原南谷152

柱松の柴燈(はしらまつのさいとう)

市指定 民俗文化財

毎年8月16日に栢野薬師堂で行われる行事です。10mほどの松の柱に柴木などを巻きつけた大松明に、昼間太陽の光から採った種火をつけ先祖の霊に祈りを捧げ、仏を送る県下でも珍しい送り盆の行事です。洲本市WEBサイトより

 洲本市五色町鮎原栢野298

鮎原米(あゆはらまい)

農作物

鮎原地区は粘土質の肥沃な地域で、淡路島の先山(せんざん)を水源とする良質な水が流れており、古来より米作りに適した場所です。
淡路島市場より抜粋 :https://www.scuolaweb.jp/SHOP/KOME-02.html

 洲本市五色町鮎原栢野298

広石

三島徳七(みしま とくしち)

日本発明家10人の一人

三島 徳七は、日本の冶金学者。アルニコ磁石を発見し、その一つとしてMK鋼の発明者として知られる。東京大学名誉教授。文化功労者。勲一等旭日大綬章追贈。
wikiより

〒656-1325 兵庫県洲本市五色町鮎原南谷152

堺寺の観音様

淡路観音霊場三十三番、十七番の札所

広石に良い香りがする木「香木(こうぼく):沈水(ぢみ)」が流れ着き、淡路島で有名になりました。うわさをきいたお坊さんが「都で天子様(推古天皇)が観音をつくりたいと木を探している」と提案し、献上するとそれを見た聖徳太子はとても喜び、天子様につたえました。天子様も大変よろこび観音像を2体つくり、1体は堺寺の御本尊としてまつりました。その後大きな災害時も観音さまは無傷で人々を驚かせました。
堺寺の観音様にお祈りすると病気がよくなる昔からいわれています。病気がよくなったお礼には手鏡をおさめます。
五色の民話より

〒656-1335 兵庫県洲本市五色町広石下461

飛谷遺跡

絵画土器出土

兵庫県淡路市楠本飛谷 

あみだ堂の石で造った五重の塔

石造五輪塔

凝灰岩製で、塔身の四方には種子(しゅじ)が刻まれています。基礎の高さが幅に対して低いこと、笠の軒が厚く反りがないこと、塔身の種子が刷毛書きで大きいことなどから古式で、鎌倉時代中期を下らないとされています。
 下堺地区の奥谷集会所の敷地内にあります。洲本市WEBサイトより

 洲本市五色町下堺519

転びキリシタン

野蘇墓

転びキリシタン(ころびキリシタン)は、江戸時代に拷問や迫害によって改宗させられたキリシタン(吉利支丹)のことである。また、宣教師などの宗教指導者の場合には転びバテレンと言った。wikiより
きくは家族が助かるために踏み絵をぞうりで踏みました。当時はキリスト教とわかると火あぶりにされるからです。野蘇墓(やそばか)とよばれ上堺の森の中にきくは今も眠っています。五色の民話より

やちまた神社のつり鐘(つり鐘(梵鐘))

県指定 重要有形文化財

地元では河内神社の名称で親しまれています。この梵鐘には銘文が刻まれており、南北朝時代の永和5年(1379年)に河内国八上郡金田宮三所大明神(大阪府堺市)に奉納されたものです。しかし永徳3年(1383年)には京都の仏心寺に移され、そこでも銘文が刻まれています。その後の経過は不明ですが、江戸時代後期の天保8年(1837年)に淡路上堺村の農家の庭で掘り出され、八衢神社に奉納されました。
 永和5年は政情不安であったらしく、「この鐘を質に持っていかないように、もしこれに背いたならば神罰が下る」と刻まれており、このような銘文が刻まれているのは非常にめずらしい。洲本市WEBサイトより

 洲本市上堺1995-1

築穴古墳(しもざかいのつきあなこふん)

市指定 記念物

標高69mに立地しています。円墳と考えられており、石室の高さ1.5m、長さ5.6m、幅1.85mで古墳時代後期の無袖式の横穴式石室です。淡路島内では無袖式のものは少なく貴重です。

洲本市五色町下堺401

両郡橋(りょうぐんばし)

津名郡と三原郡の2郡をまたぐ洲本の鳥飼川が近くに流れ、その郡境の川にかかる橋は両方の郡にかかることから、両郡橋と言われています。

鳥飼

力持ち庄左衛門

佐野庄左衛門

とても力持ちの鳥飼の村長、相撲をとるのが好きで淡路の国いちばんの力自慢でした。竹を36本抜いたり、牛の角を折ったり、お伊勢参りの途中で茶店の椅子にすわると壊してしまったという話もあります。和歌山では紀伊の殿様おかかえの力士に勝って、左文字の名刀や、綾織り(もようおり)のふんどしという褒美をもらったそうです。
鳥飼の中組、北御堂には庄左衛門がまつられています。力にあやかろうとする参拝者が遠方から訪れることもあるそうです。

鳥飼部の住んだざいしょ

垂仁天皇

いろいろと手を尽くしましたが垂仁天皇の皇子はしゃべらないまま三十歳を迎えました。ある時、一羽のコウノトリを見た皇子が「こわ何物ぞ」としゃべり、天皇はコウノトリを捕まえるよういいました。おおたかという人が名乗り上げ、紀州、播磨、イナバ、出雲とさがしまわって捕まえることができ、そのご褒美として「鳥取造(とりとりのみやっこ)」という姓(かばね)をもらいました。
その時に新しく、鳥取部(とりとりべ)、鳥養部(とりかいべ)、誉津部(ほむつべ)という部をさだめました。
この鳥養部の住んでいたところが鳥飼の地で、そこから村の名前にしたそうです。

鳥飼保育所の門

天明六年(1786)大地震があり、お宮さんの石鳥居が折れました。この鳥居は京都岩清水八幡宮の淡路国別宮という由緒があったので村人は知恵をだしあって宝樹寺の門にすることにしました。明治はじめで神宮寺である宝樹寺はなくなりましたが、石門は鳥養保育所の門として今に残っています。

〒656-1343 兵庫県洲本市五色町鳥飼中317−2

鳥飼八幡宮本殿

県指定重文

創立当初のものではなく、棟札より江戸時代初期の慶長8年(1603年)に再興されたものです。江戸時代中期の享保9年(1724年)、江戸時代後期の弘化2年(1845年)にも修理されており、現在は完全な桃山時代の建築遺構ではありませんが、三間社流造(ながれづくり)の杮葺き(こけらぶき)で淡路では数少ない桃山時代の建築遺構です。
 屋根については、現在は杮葺きから銅板になっています
洲本市WEBサイトより

〒656-1343 兵庫県洲本市五色町鳥飼中314

鳥飼八幡宮 ホルトの木

市指定天然記念物

ホルトノキは千葉県以西の温暖な地方に生える常緑高木で、県下では淡路島にのみ自生するといわれています。高さ17.1m、根廻り8m、幹廻り4.1mの巨木で、樹齢約600年といわれています。洲本市WEBサイトより

〒656-1343 兵庫県洲本市五色町鳥飼中314